ロマンチックに論じる「清代の中国」(その1)



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(「皇貴妃の宮廷 (原題:多情江山)」の放映元、
 「チャンネル銀河の公式サイト」が出典)

 2015年、中国で放映された

テレビ連続時代劇「多情江山」

(邦題「皇貴妃の宮廷」)の

初回の冒頭シーンのから

今なら司直の手に委ねられる

べき、犯罪行為へと身を汚す、

悪役の皇后「ソルナ(索爾娜)」。

この後宮ナンバーワンの女性は、

フィクションのドラマに限らず、

史実でも、ただし頭脳の優秀さをも

指摘しなければなりません。


「才長けて、見目麗しく、

 だけど‥‥‥情けなし!」


「中華民族史観?」とも

表現される、中国共産党の

公式史観では、ごく自然に、

「中国人の皇后」との扱いが

されて然るべき人物です。

しかるにその実態は、そうと

割り切れない所が残るのです……



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高島俊男 『本と中国と日本人と』
筑摩文庫、筑摩書房、2004年

p360:原文のルビは省略

中国のことをトータルに知るには、

清代について知るのが最も効率的

なのではないか、とわたしは

かねがね思っている。

  清は、秦にはじまって二千餘年つづいた

専制帝国の集大成であり、しかも時代が

近いから資料も豊富である。また、時代が

近いだけに、こんにちにつながるところも多い。

つまり、過去の中国について知るにも、

こんにちの中国について知るにも便利である。


著名な中国文学研究者であられる

高島氏の文意に、心より賛同する次第です。

私が 「歴史認識への固執」 に反対しつつ、

現在の日本と世界の双方にとり欠かせない

中国理解を、多くの方々がより深めて、

お役に立てられるべく、微力ながら成果を

公開するに至った、理由であります。

 かの王朝国家は、その前身の「後金朝」が

外国で成立し、さらに中国の一部(ほぼ現在の

遼寧省)を征服したのち、中国王朝としての

立場から名を改め、然るあとに、中国全土の

征服を成し遂げます。

その版図には、当時において「中国」以外の 

地域も含まれていました。

その「清代」の中国には、二種類の中国人が、

言い換えれば、皇帝を頂点とする全員が

武人の身分に属する「新参の中国人」と、

人数で圧倒的な多数を占める「古参の中国人」

とが、住んでいたのです。



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(「皇貴妃の宮廷 (原題:多情江山)」の放映元、
 「チャンネル銀河の公式サイト」が出典、のちほど再掲載します)

 上の画像の美男美女のうち、美男が

前者の頂点にたつ「皇帝」であり、

また美女が後者に属するなかでも、

個人としての才能と美貌を時に

称えられつつ、時に卑しまれる

「妓女」の身の上でした。

そう、遊郭を示す「青楼」での、

性産業従事者の女性です。

前者の中国人は「旗人」もしくは

「満洲(満洲人)」と称されており、

後者の中国人は「民人」に属して

いましたが、その大多数がいわゆる

「漢人」です。

 あらたまって、読者のみなさまに

お願いしたいことを述べます。

中国に革命が起きた結果、当時、

外交上は「大清帝国」と名乗っていた

清朝の国家主権が、「中華民国」に

譲り渡される事になりました。

1912年の話ですが、それ以降、

「支那(シナ)共和国」とあえて、

日本政府が外交上、称したり、

妙な「こだわり」を示す動きが、

発生し、一部は今も残存しています。

政治的な理由から、中国を「支那」なり

「シナ」なりと言い換える人たちです。

ウイグル人やチベット人の現状に

照らしても、他者の「自己認識」

「帰属意識」「アイデンティティ」

などと称される微妙な問題へ、

土足で踏み込む所業と言わざるを

えません。

もしあなたが、中国共産党が他者に

強要もしている歴史観に反対するなら、

正々堂々と振る舞われんことを、

そして、決して「同じ穴のムジナ」

に化けないことを切に希望します。

そのうえで、次の文章をご一読ください。



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岡田英弘 『歴史とはなにか』
文春新書、2001年

p75
清国は満洲人の帝国で、

その時代にはまだ、「中国」 と

呼べるような、中国人の国は

存在しなかった。 <後略>

p191
ところで、清朝は中国ではなく、

満洲人の帝国だった。現代中国人の

政治的宣伝に影響されて、

いまでは清朝を中国人=漢人の国

だったように誤解して、「中華帝国」

などと呼ぶ人が多い。<後略>



以前の記事でご登場願った、

高名な歴史学者の言説ですが、

たんなる解釈の違いで話を

済ますには、これぞまさしく

「政治的宣伝」の度合いが、

強すぎます。

「清朝は満洲王朝であり、

中国王朝ではない」という、

政治的バイアスの掛かった

たぐいの主張は、リアルでも

ネットでも流通しているのです。

頃合は十分かと思われます。

ここいらで各々、清代の中国にて

大ヒットを飛ばす魅力を放った

二つの文学作品をご紹介しましょう。

かたや、文語体で記された短編小説集、

『聊斎志異』の一遍からです。


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訳文「紅毛国(オランダと思われる)は、
   以前は我が国との交易が許されて
   いたが」
原文「紅毛国旧許与中国相貿易」

(編者・著者:竹田晃・黒田真美子
『中国古典小説選 10 聊斎志異(2)』
明治書院、2009年、所収「紅毛氈」
pp147-148)



「中国」という単語が出てますね。

他方、口語体の小説の極めつけが、

全120回(原作が80回分、補作が

40回分)で構成された『紅楼夢』に

他なりませんが、その第52回で、

「中国」も「中国人」も一度づつ、

登場人物の台詞に表れてきます

(特に、最新の訳本、井波陵一訳

『新訳 紅楼夢 第4冊』岩波書店、

p135、137参照)。

「支那」も「支那人」も実際、

『聊斎志異』や『紅楼夢』とは

無縁の単語なのです。

さらに、公式記録に残されている、

満洲人の皇帝と、旗人の臣下との

間に交わされた下記のやりとりも、

「中国」ではなく「支那(シナ)」、

そして「清朝は中国王朝ではない」

という発想のままでは、十分に

理解しえなくなります。

臣下が皇帝に書簡でかく語りかけき。



拙訳「モンゴルが強いのは、

   実に中国の患(わずら)い、   

   モンゴルが弱いのは、

   乃(すなわ)ち中国の

   幸福であります!」

原文「蒙古強実為中国之患

   蒙古弱乃為中国之福」

(原文の字体は、日本の新字体に改めた。
『清實録(第二九冊) 仁宗實録』北京市、
中華書局出版、中国書店、1986年、
p164、および拙訳)



 翌年に清朝の、政府としての歴史を

終らせた辛亥革命の勃発から数えて、

110年も昔の話です。

時は1801年、奇しくも幕が上がった

年にあたる19世紀、画期的な技術革新は

欠けても繁栄を続けていた18世紀から、

奈落の底へと落ちていった、その世紀。

モンゴル人など各種の種族が雑居する

「西寧(現在の青海省西寧市)」へ赴任した

旗人官僚の「台布」が時の皇帝「嘉慶帝」

へと送った親展状に記されていた文章です。

「ゼロサムゲーム」なる単語、そして

「シーソーのギッタンバッコン」を私に

思い起こさせる、対句でもあります。

実は、ひと口に「旗人」と言っても、

「満洲旗人」「蒙古旗人」「漢軍旗人」

「包衣(ボーイ)旗人」の上から順に、

格式の優劣が分かれた集団に編制され、

大体として、先祖や本人の出身種族に

応じて、配分されていました。

また、最下位の「包衣(ボーイ)旗人」も、

その内実は、皇帝直属の集団と、

有力皇族直属の集団に二分されてます。

驚くべきは、むしろ「蒙古(モンゴル)」

ゆかりの「旗人」であるはずの

高官「台布」という人物が、モンゴル人を

敵視している状況ですが、本論では深入り

しません。

皇帝の言行の記録を元にして成立した、

公定の歴史書である『実録』については、

中国国内で(加藤徹『漢文の素養』

光文社新書、2006年、p200参照)

国家機密の扱いを受けていました。

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拙訳「モンゴルは実に中国の
   屏藩(垣根となる藩)
   である」
原文「蒙古実為中国屏藩」

(出典は同上)


 嘉慶帝は 「上諭」 なる命令文書を発し、

「軍機大臣」という、宰相にも比すべき、

最高の地位の旗人や漢人の高官たちに

向けて、モンゴル人の肩を持ちました。

抜粋が、上に掲げた文章という訳です。

君主にとっても臣下にとっても、「中国」 に

属しているという認識が、自明の理ですね。

当然ながら、なんの歴史的な脈絡もなく、

突然変異のように、湧いて出てはきません。

そもそも、清朝軍が万里の長城を越えて

南下し、北京を制圧(1644年)してから、

まだ20年も経ておらず、いまだ中国征服

という大事業が、完了していない時点で、

清朝の最高権力者である青年皇帝、

順治帝へ宛てた報告書において、

「中国」 という漢字語が、自然な文脈で、

用いられています(岡本さえ 『清代禁書の研究』

東京大学出版会、1997年、p182、参照)

なにかピンと来られませんでしたか?

かの順治帝こそが、本記事の

冒頭近くでアップしたツーショット画像の

片割れなのです!

以降の記事は、 乞うご期待!!











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